百万のロウソクが集まった広場で

新しい集会⽂化を考える

朴槿恵退陣を叫ぶ大規模なデモが一ヶ月間ずっと続いている。この文章を書いている 11月 20日現在、検察は朴槿恵を参考人から被疑者の立場に変更し、彼女に職権濫用などの嫌疑があると明らかにした。第三者収賄罪など別の罪名についても捜査を続けているという。検察を信じるのは難しいが、この程度まで来たのも 100 万民衆の力である。

『87 年以後で最大』『秩序ある先進デモ』『非暴力デモ』。この闘いを表現する言葉も様々である。朴槿恵を支持しない国民が 95%に達し、一ヶ月間ずっと 70%が『直ちに退陣』を望むほど怒りも広範囲である。デモもやはりソウルだけでなく、釜山、光州、大邱、大田、全州、忠清、昌原、済州など、全国の重要都市で歴史上級の数の市民が広場に溢れ出した。参加人数をざっと数えることさえ別に意味がない程だ。

仮に、労働組合が主導する労働者の集会の範疇をもっと一般化すればどうだろう? 活動家たちが『一般市民』と呼ぶ参加者たちもみんな働く人であり、労働者であり、零細事業者である。一方、労働者もやはり市民であり、我が社会の平凡な構成員で、区分できない労働− 市民である。そうであれば、広場と街頭という直接の政治の現場で、組織された労働者と未組織− 市民との間に設けられた障壁は、組織された労働者と組織されていない労働者を分ける無形の障壁であるかも知れない。

例えば、広場あるいは工業団地の前の公園で、『汗を流して働く人たち、みんな集まろう!』という名称の集会を開くとしよう。大規模集会に集まった組織された労働者であれ、労組のない労働者であれ、自営業者であれ、誰であれ集まって、朴槿恵政権下での『仕事』の問題、暮らしの問題はどうなのか、我々をどんなに苦しめ搾取したか、これから何を振り落とさなければならないかを一緒に確認して叫べば、組織された労働者だけの集会のパターンから抜け出せるのではないか? 働いて飯を食べる市民であれば誰でも一緒にできれば、そして労働組合という垣根が羨ましかったり、あるいは私とよく似た苦労をするまったく同じ労働者であることを共感する過程で、ある種の連帯感が形成されるのではあるまいか?

そうであれば、このような出会いが成功するとなれば『組織労働者』と『一般市民』といった式の曖昧な区分も必要なくなる。一ヶ月を超えてストライキをしている鉄道労働者たちと、小さな町のコンビニで働く 30 代のアルバイト労働者、労組がない中小企業の非正規職から、一日 12 時間、骨が砕けるほど働いても一ヶ月に 100 万ウォンを稼ぐのもシンドイ零細自営業者まで。韓国社会で働いて生活することがどんなに耐えがたく困難なことか、誰が我々をこんなにしているのか、『朴槿恵退陣』の声を契機に集まって声に出せる場。そして『一緒にならなければならない』という合意を集める場。

これは会社帰りの行進のような実践にも使うことができる。普通、工業団地の数百の事業場の中で、労働組合はやっと指で数えられる程度に過ぎない。この幾つかの労働組合が主導して、『笛を吹く男』でのように、誰でも一緒に声に付いて行ける『朴槿恵は下野しろ!○○工業団地退勤行進』をすれば、死んでいた工業団地に活気を呼び起こす契機になるのではないか? このような実験が成功したとすれば、労働組合が組織化活動に全幅の関心を傾ける工業団地の労働者との関係作りに、関心を持つ契機にもなり得るだろう。

退陣闘争の新しい主体たち

青少年と女性もいる。青少年たちは世越号の惨事と入試競争などによって苦しむ社会的な矛盾に対する問題意識を、集団的に表出する権利がいくらでもある。最近の集会に青少年の参加者で目に付く多くのことは、10 代における全般的な情緒も反映している。センター試験の直後だった 11 月 19 日の集会に、多くの青少年の参加が目立った理由である。

女性たちの闘いも注目しなければならない。今年、韓国社会は江南駅殺人事件を始め、女性嫌悪と差別を巡る多くの論争を経て、最近では堕胎罪の廃止運動と色々なフェミニズムの運動が活溌に行われている。これは崔順実ゲートを触発させた梨花女子大闘争に特別な意味を付与したりもした。朴槿恵退陣闘争でも一群の女性主義の集団、個人と団体などが隊伍を形成して、「フェミが堂々としていれば、朴槿恵を退陣させられる」といったスローガンを叫んでデモに加わっている。時間が経つほど数は増えており、闘い全体への嫌悪発言や雰囲気などに対する問題提起を通して、より平等な闘いを創り出すことに寄与している。これは性少数者、芸術家、障碍人、貧民など、様々な集団での似たような流れに続いた。

我々は普通『開かれたデモ』とか『自由発言時間を作る』程度で考える。しかしこれもやはり制限されたアイディアかも知れない。舞台が自由発言台になったとしても、自発性が高くなったのではなく、時には嫌悪発言に曝されることもある。そのため 11 月 19 日のデモでは一種の規律を定め、これを大衆的に共有したことは良かった。

しかしこれが単に一つの『規律』だけに帰結するのではないかという心配もある。我々のデモが『やってはならないこと』の禁止目録として残らず、なぜ、みんなが平等に闘わなければ我々が望む世の中が近付くことはないのかに、悩み、討論する契機をもっと増やせば、一つの規律もより豊富な意味を持つことになる。

我々が知った世界の⻲裂

ラテン・アメリカの民衆演劇の演出家・アムグスト・ポアールは、カフェなどの特定の場所で、偶発的で何も期待できなかった状況を企画し、大衆の集団的で政治的な行動と、演劇公演の境界線を壊す実験をしているところだ。『場所特定的演劇』といったような実験と向き合っている。

例えば、集会も一つの演劇なのかも知れない。我々が期待していなかった偶発的な状況に驚いて、注目して、積極的に加わることは、それが我々の通念を壊してしまい、新しい衝撃をプレゼントするからだ。時には、我々にはそのような目覚めの時間が必要である。集会は参加者の決意を確かめ、団結を確認する場所ではあるが、時には実験と目覚めの場所でもあるからだ。

人は集会やデモの現場で自分が知っていた既存の『世界』とは違ったなにかを感知する。我々の誰でもが持っている支配的なイデオロギーに亀裂が生じるのだ。もちろん集会やデモに参加することだけで、支配的なイデオロギーの亀裂を経験できるものではないが。例えば、読書や文学、愛のようなものを通じても、我々は我々が知っていた世界の壁に亀裂が走り、いつか我々がこの壁を壊して、完全に別の所に行くことができるかも知れないと想像をする。

我々の集会・デモ文化が新しい実験を続けながら、悩み、企画し、下からの要求とアイディアを収斂することを止めなければ、新しい抵抗文化の創出もやはり可能である。そして、これが沈滞に陥っている労働運動に、些少であれ、刺激になるかも知れないということだ。

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